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北斎土産 日々日記

2017年04月07日

葛飾北斎について

葛飾北斎について
  葛飾北斎

 

葛飾北斎の壮絶な人生

 

たぶん、葛飾北斎は、日本一有名な画家ではないでしょうか。ここで、葛飾北斎についていろいろと調べてみたので、このブログに記載しておきたいと思います。

 

小さい時から、手先が器用と言われていた北斎は、14歳の時に、版木彫りの仕事についたそうです。版木彫りの仕事は天性だったのか、どんどん仕事が身に付いて行き、また彫りながら、文書や絵に魅了されていったそうです。こうして北斎は、18歳(1778年)の時に自分の絵を描いてみたいと思うようになり、版木彫りの仕事をやめ、人気浮世絵師の勝川春章(かつかわしゅんしょう)に入門することになったそうです。

勝川春章は、江戸時代中期を代表する、似顔絵を用いた写実的な作風で描く、一世を風靡した浮世絵師です。


北斎は、入門し、勝川春章より浮世絵を学ぶが、浮世絵だけでは満足せずに、師匠に内緒で、狩野派の画法や司馬江漢(しばこうかん)の洋画も学んでいったそうです。
狩野派とは、日本絵画市場最大の画派であり、室町時代中期から江戸時代末期まで、約400年に渡って活動した画壇(画家の社会)の中心であった画家集団のことを指します。

このように師匠に内緒で、狩野派を学ぶ北斎でしたが、後にこの北斎の行動が春章にバレてしまったそうで「ワシに教わりながら、他派の絵を真似しやがって!この馬鹿者が!!」と波紋させられてしまいます。

 

波紋させられた北斎は、もちろん生活に困ります。
こうして生活に困った北斎は、唐辛子を担いで顧客に商品を届けたり、灯籠やうちわの絵を描いたりなど、現代でいうアルバイトのようなことまでして生活をしていたとのことです。

 ただ、「餓死しても絵の仕事はやり通してみせる」と腹をくくり、朝から真夜中まで、常に筆を走らせたと言われています。


このように絵に対して、好奇心旺盛の北斎は、当時、風景というものはあくまで人物を引き立たせる背景に過ぎないと考えられていましたが、北斎が38歳の頃に、鎖国中でも交流をもっていたオランダの風景版画に感銘を受け、北斎は風景画にも魅了されるようになっていったようです。

絵を描き続けるが、生活は貧しい北斎に、ついに転機が訪れます。それは、オランダ商館に絵が気に入られ、作品を高値で売却出来たのです。また、その絵をオランダ商館が、オランダに持ち帰ると、その絵を見た、オランダの医師も北斎の絵に魅了され、またしても北斎に絵の注文が入ることになりました。

 

しかし、絵が完成すると、オランダ医師は北斎に絵を半値にしてくれと値切りました。

北斎は、そのことにものすごく激怒し、絵を持って帰ってしまったといいます。

妻は、「半値でも生活が苦しいから売却して生活の足しにした方が良かったんじゃないかしら」と尋ねたようですが、北斎は、「同じ絵を半値にすれば、日本の絵描きは掛け値の取引をすると思われるようになる。このような事は、絵師だけでなく、日本人全体の信用に関わる問題なんだ」と答えたといいます。

また、大名の使者より絵の依頼があった時も、使者の横柄な態度が気に入らなかったために、使者を家から叩き出した事もあったと言われています。

 

このようなことより、北斎の絵に対するプライドも尋常じゃなかったのだろうと伺えます。

 

− 北斎漫画 −

こうして、北斎が54歳(1814年)の時には、民衆の様々な表情や動物、植物のスケッチを収めた『北斎漫画』を発表しました。

 

北斎漫画は、折にふれ、筆のおもむくままに描いた絵といった意味らしく、町人が割り箸を両鼻に突っ込んでたり、ロウソクの灯を鼻息で懸命に吹いてたり、禅僧・達磨(だるま)が百面相を作ってたりと実に面白おかしく表現された作品となっております。北斎漫画の表題は、北斎自身がつけたと言われており、現代の漫画とは少し意味合いが違うようですが、思わず笑ってしまうという面では、共通の要素かもしれません。このように「北斎漫画」とは思いつくままに描いた絵といった意味で、軽妙で自由奔放な筆運びから、北斎は森羅万象を描く絵師とまで言われたそうです。

 

そして、北斎芸術の頂点は、70歳過ぎて刊行された『富嶽三十六景』と言われています。この作品は、北斎が50代前半、初めて旅に出た時に、各地から眺めた霊峰や富士に深く感動し、その後、何年も構図を練りに練り、画中のどこに富士を配置すべきかを計算し、荒れ狂う波や、時には桶の中から覗く富士や大工からの見える富士を描いて行きました。このように北斎は、絵を想像力によって視覚化する天才とも言われています。

 そして、富嶽三十六景といっても実は36枚の絵ではなく、人気だったために追加で10枚描かれているので、合計46

 また、作品には、庶民の生活が丁寧に描かれており、庶民は富士と自分たちのツーショットを気に入り、北斎と言えば富士と称賛されるようになっていったといいます。

このような北斎ですが、引越しを生涯で93回も行い、名前の変更は30回もしていたと言われています。名前の変更は、いろいろなジャンルに挑戦する中で、真の実力を世に問うために行っていたと言われており、引越しは、とにかく北斎は掃除が嫌いだったのが理由らしいです。料理も全くせず、常に出前で、食器などももっていなかったといいます。そして絵を描く時間を本当大切にしていたんだと思いますが、引っ越した場所も、ご近所の墨田区内周辺を転々としていたようです。

 

ただ、ここまで絵に魅了され、このような生活をしていたからこそ、現存している絵が3万点以上も残っているんだと思います。

 

こうして、北斎は88歳でお亡くなりになるのですが、最後を迎えるときに北斎は、「あと10年、いや5年でもいいから生きることができれば本当の絵が描けるのに・・・」と嘆いたと言われています。

 

世界に名を残す有名な画家、北斎!

やはり、壮絶な人生を生きておりました。